「安積の森」を守ろう!

f:id:soharajishi:20220219165814j:plain

 岐阜県各務原市蘇原野口町という所に「安積の森」といわれるところがあります。

各務原市の史跡では「中世館遺跡」といわれています。

 確かに、土塁と堀に囲まれて矢倉を構えており、中世の武士の館の典型ですが、その歴史は古代にさかのぼります。奈良時代にはここに国衙がありましたが、飛鳥時代には蘇我馬子の一族が治めていました。「蘇原」という地名はその名残ですが、近くには「飛鳥」「各務」「須衛」という地名も残っています。当然、当時の須恵器も多数発掘されています(今でも写真の畑には青海波紋の須恵器破片が散らばっています)。

 近くの宮塚古墳は蘇我馬子の孫にあたる石川麻呂の墓です。おそらく、ここが石川麻呂の館であったと思われます。当時の蘇我氏は「大陸開明派」と言われています。今でいう国際協調派であり、儒教や仏教によって国を治めて行こうとしていました。その思想の核心が、聖徳太子によって伝えられた「和を以て貴しとなす」です。

 その対極をなすのが、武闘派の物部氏国粋主義の中臣氏でした。両者が衝突するのは必然であり、ついに587年、物部守屋蘇我馬子厩戸皇子(後の聖徳太子)によって滅ぼされます。しかし、その反動で645年に大化の改新が勃発して、中臣鎌足中大兄皇子(後の天智天皇)と共に蘇我氏を亡ぼすのです。

ところが、さらにその反動で672年壬申の乱が起こって、大陸開明派が権力を握って律令制度がはじまるのです。その中心が天武天皇ですが、それを支えたのがこの地の出身である村国男依でした。もちろん村国男依は、儒教や仏教を尊ぶ大陸開明派ですが、おそらくこの近くの出身であろうと思われます。

 そして、それに繋がるのが、後の護命僧都や鏡久綱、そしてこの安積清右衛門や「お獅子様」なのです。ゆえに、その志(こころざし)は「和を以て貴しとなす」なのです。つまり、平和や人権を尊ぶ民主主義こそ、この蘇原地区の伝統なのです。